1950年代初め、磯崎 新氏が大学生の頃、ル・コルビュジエは話題の中心でした。1967年、彼はル・コルビュジエに関する文章を発表します。2000年に刊行された『ル・コルビュジエとはだれか』(王国社)はそのときの文章と、以後書いたいくつかのテキストをまとめたものです。そのなかでも磯崎氏はル・コルビュジエの持って歩いていたノート、スケッチブックの重要性を強調します。レクチャーでは、ル・コルビュジエを振り返るときの手がかりとして、ノートやスケッチブックがどのように絵や建築、そして実生活に関わっているのかをスライドと共に説明、考察しました。
ル・コルビュジエは亡くなる直前の1965年夏、20歳頃に描いたスケッチブック、ノートブックを出版しました。断片的な言葉やイメージをまとめた『東方への旅』です。ル・コルビュジエの人生がこの『東方への旅』に始まり、結果的に遺言にもなっていると磯崎氏は考えます。丘の上に建つパルテノンについて「絶対的な権力を持って支配する立方体が、海を睥睨している」とル・コルビュジエは記しています。磯崎氏はこれを「最初の建築体験、建築の啓示を受けた瞬間だった」と述べます。そしてル・コルビュジエのそのノートには次のような言葉も書かれていました。「純粋な立方体が地中海の光の中に黒い影を持って立ちあらわれる」。
10年後パリに出て、オザンファンとピュリスムを標榜したル・コルビュジエ。その際の最大の問いかけは「ポストキュビスムとして何を提案するか」ということでした。そしてル・コルビュジエがその答えとして描いたのは、立方体の静物画《暖炉》(1918年)でした。
『ラ・ロッシュのアルバム』と呼ばれているスケッチブックには、ひとつのモチーフのいろいろなバージョンが描き続けられています。そこでは、透明なものと透明なものが重なり合っていて、その重なり合った空間をスケッチでどう表現したらいいかということが探求され、それを建築に置き換える作業が行われています。ル・コルビュジエの仕事は全部一貫した、ひとりの作家がひとつのイメージを探す過程であり、このスケッチブックは、ル・コルビュジエの作品集の原型になるものと考えられます。
1925年前後「白の時代」以降、いくつかの大型プロジェクトが実現せず、ル・コルビュジエは建築家として挫折を味わいました。そして1929年、南米旅行に出かけます。その頃のノートブックからは、素朴な民家などに関心を抱き始めたことがわかります。また、ヨーロッパとは違う、エスニックなものにも段々と興味を持ってきています。南米からの帰りの船では、当時スーパースターだったダンサーのジョセフィン・ベイカーと偶然一緒になり、これを機に交遊が始まります。モダンな感覚を持ったエスニックなエンターテイナーがル・コルビュジエの前にあらわれたのです。ベイカーへの思い。寝顔や上半身ヌードなどのスケッチを描いています。ちなみにジョセフィン・ベイカー邸は『装飾と犯罪』の建築家、アドルフ・ロースの設計でした。
磯崎氏はこの頃「黒い影がコルビュジエの中に忍び込んだ」ことに気付きました。ル・コルビュジエのスケッチに、白の時代に見られた透明性がないのです。かわりにあらわれたのは黒い影や黒い線でした。そしてそのモチーフは、海に潜る海女、娼館の女性など、多くは二人の女性でした。エロティックな裸体スケッチも描いています。
1929年、建築家、アイリーン・グレイの設計した住宅《E-1027》が建ちます。この住宅は、ル・コルビュジエの白の時代の住宅の理想型のような、エレガントな建物でした。しかし後にル・コルビュジエが近所に《小さな休暇小屋》(1952年)とロッジを建てたため、あたりの景観は台無しになってしまいました。そればかりでなく、ル・コルビュジエは無断でグレイの家の白い壁に自分の絵を描いて埋めつくしてしまったのです。それを見たアイリーン・グレイは激怒したそうです。《E-1027》にとってル・コルビュジエは破壊者です。それにしても、なぜわざわざ白い壁を汚したのか、なぜ描かれたものが二人の女というモチーフだったのか。ここで見てとれるのは、アイリーン・グレイに対する屈折したル・コルビュジエの愛憎です。
全体を統括して支配できる透明な空間。そして女性という、思うようにならない黒い影としての他者。社会的にも挫折を体験したル・コルビュジエはその40代、50代半ばを、他者の存在を受け入れながらも、なおかつ建築と現実社会にどのように関わっていくか考えて過ごしたのではないか。そして、そのような状態をそのまま作品にしようとしたところが、ル・コルビュジエの特別のところなのではないか。コントロールのきかない人間や社会、破壊された都市、世界、奇妙な欲望など、これらすべてがひっくりかえり、混乱した状態が、第二次世界大戦が終わった頃に生のまま重なり合ったのではないか。そのように磯崎氏は考えます。
やがてル・コルビュジエは、《ラ・トゥーレットの修道院》の設計を依頼されます。ル・コルビュジエは最初の案を神父に提示しますが受け入れられず、逆に南仏のトロネ修道院を見てくるよう要求されます。南仏から戻った彼は、「光は10パーセント」、「全部石だけ」という言葉の記されたメモを持ち帰り、建築に着手します。1963年、磯崎氏は《ラ・トゥーレットの修道院》を訪れました。そして「身体で関知しない限り建築空間というものはない」と語ります。女っ気が一切なく真っ暗な修道院内。そこで修道士たちはどのように生活しているのか。彼らの相手は、「見えない神」のようでした。ル・コルビュジエは、最初の透明なところから、最後は暗闇の、何もなく再度純化された空間をつくりました。そこは神と直接的に、身体的に対話する空間なのです。