展覧会

MAMデジタル

2020.4.28(火)~ 7.31(金)

「MAMスクリーン」オンライン特別上映

「MAMスクリーン」シリーズの作品を特別に公開します。
開幕が延期になっている「MAMスクリーン013:ムニーラ・アル・ソルフ」から上映作品2作を一足先にお見せするほか、過去の作品をセレクトし、「MAMスクリーン」アンコール上映として期間限定でご紹介します。

■ 「MAMスクリーン」アンコール上映
「MAMスクリーン007:山本 篤」*** NEW ***
「MAMスクリーン011:高田冬彦」
「MAMスクリーン012:チェン・ジエレン(陳界仁)」
「MAMスクリーン 013:ムニーラ・アル・ソルフ」 先行公開


「MAMスクリーン007: 山本 篤」アンコール上映

「MAMスクリーン」アンコール上映の第3弾では、「MAMスクリーン007:山本 篤」で上映した9作品の中から8作品を限定公開します。

山本篤(1980 年生まれ)は、ドキュメンタリー作品からフィクションや実験的なコントのような作品まで、これまで200 本にのぼる映像作品を制作してきました。近年では、シュウゴアーツ(東京)での「どう生きるか#2六本木にて」(2018年)、ゴールデン・スレッド・ギャラリー(英国、ベルファスト)での「沈黙のノイズ:日本美術のいま(Noise of Silence: Japanese Art Now)」(2019年)、他多数のグループ展に参加、Art Center Ongoing(東京)では個展「祈りのフォーム」(2020年)を行いました。

山本の作品の舞台は、ニュータウンなどの都市郊外の匿名的なロケーションです。作家自身が暇を持て余した若者や非正規労働者などを演じるものが多く、それらは東京近郊の一般家庭で育った山本の出自にも関係しています。どの作品にも描かれているのは、目の前の現実と向き合おうとする山本の真摯な姿だといえます。本プログラムでは、初期と近年の作品を通して、山本の映像の多彩な魅力に迫ります。

アーティスト&キュレーターからのコメント

2017年の「MAMスクリーン007」から今回、再上映している作品は、一番古いもので2008年(12年前)、新しいもので2013年(7年前)の作品になります。

2003年に映像作品の制作を始めたことを考えると、これまでの歩みのなかで中間地点あたりの作品群といえます。これらの作品にあらためて光を当てていただけることに感謝するとともに、自身の作品に関して振り返ってみると、作品に通底する根の部分は変わっていないことに気が付きます。

ドイツのベルリンで「孤独とアイデンティティ」をテーマに始まった私の映像制作は、帰国後、社会の「閉塞感」「どん詰まり感」への反応・発露を経て、少し前までは「物を語ること」「物語」についての興味へと移行していきました。

作品が変わり続けることは自然の流れだと捉えています。環境や社会の変化に合わせて、自分の興味や表現も変化してきました。一方で、最終的にアウトプットされた作品には常に「私たちたちはどんな世界に生きているか?」という問いがあったように思います。(人間中心的かつ自己中心的な考え方を変えられず、ここまで来てしまいました。)

世界の見方の変更を迫られるような現在の状況でも、この基本姿勢は変わりません。答えではありませんが、ひとつ言えるのは「不可能性の可能性」というような二律背反にこそ、世界の普遍性を感じていることです。

今回の上映作品で言えば、《8bitの現実世界》(2011年)では「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇」というチャップリンの言葉を意識しました。(ファミコンの解像度の世界ではリアルな痛みなどまったく感じられなかった幼少期の経験がアイデアの基となっています。)「悲劇であり喜劇である人生」のように、見方を変えれば、どんな事物も簡単にひっくり返る。そして、今私たちが直面している新型コロナウイルス感染症が広がる現実について思い浮かんだのは「変わる/変わらない」という言葉でした。

「新しい日常」という言葉に対して、私は少しだけ違和感があります。言葉尻を捕らえるようですが、社会は今も昔も変わり続けており、私たちは昔から常に「新しい日常」を生きてきたといえるからです。変化の質や度合い、速度が違うだけで、日常は「変わっているし、変わっていない」と感じています。地続きの日常に「新」と「旧」との線引きをすることに戸惑いを感じてしまう自分がいます。

「変わる/変わらない」(その時代や環境に反応しながら普遍性を求める)の狭間で制作することを意識してきた自身の作品の見え方も、また同じように「変わり/変わらない」というのが素直な感想です。そして、この「答えがあり/答えがない」というパラドックスを、あるがままに楽しんでもらえたら嬉しいです。「ART=生きること」であるならば、私のARTの魅力は、その二律背反性や多義性であると考えています。

山本 篤  


今回、山本さんの映像作品をあらためて観たとき、画面の片隅に映り込んでいる些細な事柄に目がいきました。田畑の水路や住宅街の電線、駐車場の雑草など、普段はじっくり見ることのないありふれた都市郊外の風景なのですが、そうした作品の細部と全体とを行き来していると、それらの事柄が山本さんの作品に豊かなリアリティを与えていることに気が付きました。

見過ごされる日常は、現代美術の映像作品でも幾度となく表現されてきました。例えば1960年代から実験的な映像作品を発表してきたブルース・ベイリー(1931-2020年)の《All My Life》(1966年)などがあります。そうした作品を通して、実は日常の些細な事柄というものが、私たちの世界を成立させる重要な要素であるということが分かります。

コロナ禍以降の私たちの生活や世界について考える上で、山本さんの「私たちはどんな世界に生きているか?」という問いや、「変わる/変わらない」という考えは、これまで以上に重みを持つように感じます。世界は常に変わり続け、同時に変わらない。変わり続ける世界を生き、変わらない大切なものに目を向けることの重要性を、山本さんの作品から読み解くことができます。

德山拓一(森美術館アソシエイト・キュレーター)


山本 篤《2dogs》

2010年
ビデオ
2分51秒

本作では、若者ふたりが犬のラジコンカーを無表情に操縦し続けています。ラジコンカーに被せられた犬のぬいぐるみの胴体は傾き、足からはタイヤが露出しており、その適当な造作からはラジコンカーにも行為自体にも彼らの愛着がないことが見て取れます。都市郊外で青春時代を過ごした山本自身の経験も投影されているという本作は、若者たちがコンビニエンスストアの駐車場や空き地にたむろし、無為な行為を繰り返したり、時間をやり過ごしたりする中で感じる焦燥感ややり場のなさを、ユーモラスに切り取った作品だといえます。


山本 篤《青いおばけ》

2010年
ビデオ
3分39秒

本作は、山本が偶然目にしたショッピングモールの店舗で流れていたアニメーションに着想を得たものです。アニメーションでは、青いモンスターが悲しみにくれるお姫様を慰めていましたが、本作では、山本自身が扮する青いお化けが中年男性を慰めています。舞台も廃墟になった場末のバーのような場所で、そこには悲しみさえも美しく描かれるファンタジーの世界に欠如している現実の生々しさがあります。ファンタジーという形式を山本自身のリアリティに適用したとき、その約束事が機能しなくなるのは自明ですが、あえてそれを試みるナンセンスに、この作品の問いかけがあるといえます。


山本 篤《8 bitの現実世界》

2011年
ビデオ
3分17秒

本作は、ファミリー・コンピューター(ファミコン)のソフト「スパルタンX」や「イー・アル・カンフー」などの8 bit(※1) の対戦型格闘ゲームを実写で再現しようとした作品です。遠距離で撮影し被写体を小さく捉えることで、解像度の低いゲームソフトの画面を模しています。最新の3Dグラフィックを駆使した対戦型格闘ゲームに比べると、8 bit のゲームで描かれる暴力や死は鮮明さを欠き、現実味はありません。山本はその非現実さを用いることで、自身が影響を受けたチャーリー・チャップリンの「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」という言葉にある人生観を表現しています。

※1 8 bit(ビット)とは、コンピューターのCPUとして利用されるマイクロプロセッサの仕様のひとつで、1970年代から1980年代のパソコン(8ビットパソコン、ホビーパソコン)や任天堂のファミリー・コンピューター(ファミコン)をはじめとするゲーム機で広く使われていた。


山本 篤《不可能性の可能性》

2008年
ビデオ
12分21秒

本作は、車輪のないスケートボードで滑ろうと悪戦苦闘する山本自身を映しています。タイヤのないスケボーは滑ることができずトリックもできません。何度も不可能なことに挑戦する山本の姿は、その場所に留まっていることしかできないという、一見するとネガティブな状況の中にも新しい可能性はないだろうか、と問いかけるようです。


山本 篤《山を越える》

2011年
ビデオ
3分3秒

山を歩くホームレスにスーツを着た男が突然襲いかかる。本作は、持つものが持たざる者から物を奪う状況を描いています。その根底には「人生において困難に巡り合っても人は歩き続けなければいけない」というシンプルなメッセージが込められています。また、本作は東日本大震災の翌日の2011年3月12日に撮影されたことからも、作家自身にとって意義深い作品になっているといいます。


山本 篤《君に話したいことがある》

2011年
ビデオ
1分42秒

本作では、山本が扮する年配の男性がリズミカルに掃除をしています。これは山本が通勤の際に毎朝目にする人々に着想を得たものです。秋の終わりに毎日落ち葉を掃除するという際限のない徒労のような行為でも、山本にとっては心安らぐ風景として日常の一部に組み込まれていたといいます。本作は、いかなる行為でも現実社会に拒絶されずに受け入れられる可能性があることを描いているのかもしれません。


山本 篤《美しく燃える石》

2012年
ビデオ
9分31秒

平凡な日常が続いたとしても、夢中になれるものがあれば人生は満たされるのかもしれません。交通誘導の仕事をする登場人物は、広島カープの熱狂的なファンでもあります。本作は、その2つに共通する腕を振るという動作を起点に、この男性の人生の根幹にあるものを描こうとしています。職場と球場の2つの場所で、単純な運動を繰り返す男性を捉える映像には静かに燃える情熱が見え隠れします。「ハレとケ」や陰陽などの二元論を想起させるシンプルな構成は、日常の繰り返しの中に生きることの本質が隠されていること、確かな幸せや生きることの美しさについて考えさせます。


山本 篤《Sunny days in Thailand》

2013年
ビデオ
12分56秒

本作は、「微笑みの国」と呼ばれるタイを「太陽の国」にしようとするヒーローを題材にした作品です。登場人物のジャケットの内側には、フィンセント・ファン・ゴッホふうの太陽が描かれています。人目を気にしながらコートをひらき太陽を覗かせ、クライマックスではスコールに打たれながら、ここぞとばかりに太陽を露出しますが、誰にも相手にされていません。「自分がこの国を太陽の国にする」という偉業を成し遂げようとするこの人物が本当のヒーローだったと仮定すると、ヒロイズムとナルシズムの関係や正義の恣意性など、本作にある批評的な視点に気付かされます。


「MAMスクリーン007:山本 篤」

会期:2017.11.18(土)~ 2018.4.1(日)

主催:森美術館

企画:徳山拓一(森美術館アソシエイト・キュレーター)

※展覧会ページはこちら:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen007/


「MAMスクリーン011:高田冬彦」アンコール上映

「MAMスクリーン」アンコール上映の第2弾では、「MAMスクリーン011:高田冬彦」で上映した11作品の中から3作品、《Dream Catcher》(2018/2019年)、《WE ARE THE WOMEN》 (2013/2019年)、《偉い石プロジェクト》(2007年-)を選出し、限定公開します。

高田冬彦(1987年、広島県生まれ)は、宗教、神話、おとぎ話、ジェンダー、トラウマ、性、BL(ボーイズラブ)など様々なテーマを扱いつつ、ポップでユーモアのある、時折エロティックな映像作品を発表してきました。自宅をスタジオとしたものから、大学や野外まで、撮影場所は様々ですが、手作り感溢れたセットも特徴です。近年では東京都現代美術館の「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」(2016年)に参加、児玉画廊(2013年、2016年)やArt Center Ongoing(2012年、2014年、2017年)で個展を行いました。

高田が扱う多様なテーマは時代を超えて人間社会で重要なものでありながら、誇張されたユーモアと共に分析・批評されることで、ある種のカリカチュアとなっています。特に、現代社会において再考を求められている、男らしさや女らしさの固定観念に対する批評性は顕著です。高田が、恋愛の神キューピッドから、ナルシスティックな牧神や女装する男子、主人公の恋人たちを影で見守る脇役の小鳥まで、様々な立場で作品に介入するのも、こうした背景があるといえるでしょう。高田は、このように多様な問題提起を、荒唐無稽に見えつつ緻密に構成された作品で行います。

アーティスト&キュレーターからのコメント

今回機会を得て、去年「MAMスクリーン」で展示した作品の中から、いくつかをオンラインで公開することになりました。できるだけ色々な作風のバリエーションを見ていただきたいと思い3作品を選びました。

このうち、特にここで触れたいのはラプンツェルの童話を下敷きにした作品《Dream Catcher》です。塔の中に幽閉されて王子様を待つ少女の有名な物語を、僕なりに現代の話に置き換えて制作しました。

ラプンツェルに限らず、いばら姫や、日本神話の岩戸隠れなど、昔話や神話には、一時的な引きこもりの時間、というモチーフが散見されます。僕はそれに強く惹きつけられてきました。なぜなら、僕自身がラプンツェルさながら一人暮らしのアパートの一室に引きこもり、その中で膨れ上がる自意識の問題というメンタル面にも注目しながら、ワンルームで完結する表現にこだわってきたアーティストだからです。

集団性やコミュニケーションを基軸におく美術の表現が注目を浴びる中で、こうした内向的とも言えるテーマ/方法を続けている自分に、どこか後ろめたさを感じることもあります。しかし同時に、増え続ける単身世帯や、引きこもり、孤独死の問題を考えると、そしてその閉じた世界の中での彼/彼女らの心の在りようを想像すると、これはこれでやはり現代ならではのイメージなのではないかと思うのです。

今回のコロナ・パンデミックで、人々は半ば強制的に引きこもる経験をしました。僕にとってそれは、正直に書くとどこか居心地の良い体験でした。コミュニケーションから逃れることでホッとしている自分を感じました。僕が思うに、こうした人は意外と多いのではないでしょうか。特に、社会から抑圧を感じている人、居場所がないと思っている人たちの中には。

僕は今後も、こうした現代のラプンツェルたちに着目していきたいと思います。彼/彼女らの自意識が、引きこもった小部屋の中でどのように傷つき、暴れ、外の世界と(ねじれた形で)接続されていくのか。コロナ禍の中で、僕はこんなふうに、あらためて自分の立ち位置を考えています。

高田冬彦  


今回、コロナ禍の中での「Stay Home」を、ある種象徴するかにも見える《Dream Catcher》をはじめ、社会における女性の立ち位置や宗教的なものなど、テーマの幅広さを見せられる3作品を高田さんと一緒に選出しました。
ユーモラスかつアイロニカルな高田さんの作品は、見かけのポップさに反して様々なことを考えさせてくれます。それは、ポリティカル・コレクトネスや時事ネタへの応答ではなく、自分自身と向き合う中から、もしくは時代を超えた神話的なものや美術史と対峙する中から、身を削るようにしてテーマが出てきているからなのだと、高田さんのコメントを読んであらためて思いました。そして、その結果として時事的なテーマとなっているところが、また面白いと言えます。

《Dream Catcher》のインスピレーション源が、ルイーズ・ブルジョワの、女性が何かにぐるぐる巻きにされた様子が表現された「Spiral Woman」シリーズにもあると伺い、腑に落ちました。どのような災害や災難の中でも立ち位置を失わず、自分と向き合うことでぐるぐると螺旋状になってしまうくらいの自意識が、今後どのような作品を生み出していくのかとても楽しみです。

椿 玲子(森美術館キュレーター)


高田冬彦《Dream Catcher》

2018/2019年
ビデオ
5分25秒
出演:遠藤麻衣

本作では、ラプンツェルの童話を下敷きに、「いつかは理想的な男性が自分を迎えに来てくれる」といった少女や独身女性が抱きがちな「白馬の王子様」信仰の無意味さが、アイロニーと共にコミカルに表現されています。パフォーマンスのシーンと、ミニチュアのシーンが組み合わせられ、アーティストの遠藤麻衣がラプンツェルを演じます。
王子様を待ちわびた塔の上のラプンツェルは、フランク・チャーチル作曲の「いつか王子様が」の替え歌を歌っています。ラプンツェルは長く編んだ髪を塔の外へと垂らし、まだ見ぬ王子を釣り上げようと、自らぐるぐると回転して髪を巻き取り始めます。しかし回転運動に身を任せて感情が高ぶるうちに、彼女の身体は幾重にも巻きついた髪の毛で覆われ、もはや本来の目的を失った、痛々しい黒い塊に変身します。
一方、塔の外の世界は、ラプンツェルの髪の毛の激しい動きによってかき乱され、天変地異のあとのような混沌の世界が訪れるのです。


高田冬彦《WE ARE THE WOMEN》

2013/2019年
ビデオ
8分47秒

フリーダ・カーロ、マドンナ、マーガレット・サッチャー、エリザベス1世、旧約聖書のユディトなど、歴史上の名だたる「強い女たち」の頭部が、トーテムポールのように積み上げられていく映像作品です。この塔の頂上では、高田が扮する女神のような人物が崩れないよう頭でバランスをとりながら、どこからか響く神々しい声に従って指定された人物の頭部を足で拾い上げ、積み重ねていきます。その声は作家のフェミニスト的な思想を持つ母親の声を加工したものですが、すべての頭部を積み上げる前に塔は倒れてしまいます。
積み上がりそうで、どうしても最後まで積み上がらない塔は、女性の解放と社会進出が進んだ現代社会においても、依然としてジェンダー間の不平等による規制や女性の社会進出における困難が存在することを提示しているようです。


高田冬彦《偉い石プロジェクト》

2007年-
ビデオ
8分9秒

高田は、2007年の春、近所の工事現場で「つまらない石」(正確にはコンクリートの塊)を拾いました。本プロジェクトは、その何の変哲もない「石」を主人公にした映像、もしくはパフォーマンス作品を多数制作することによって「石」に様々な経験をさせて、「世界一経験値の豊富な立派な石」に育て上げよう、という試みです。これまでの「石」の経験としては、人間の背中に巻き付けられて繁華街の道路を人間と共に這いまわる、生肉を巻き付けられ森に放置されてウジ虫にたかられる、未開民族風の儀式で呪いをかけられる、街を練り歩くチンドン屋に宣伝をしてもらう、などがあります。撮影した映像を、2〜3分ほどに短く編集し、それをオムニバス的に繋げていくことで、本プロジェクトは断続的に継続される予定です。


「MAMスクリーン011:高田冬彦」

会期:2019.6.20(木)~ 10.27(日)

主催:森美術館

企画:椿 玲子(森美術館キュレーター)

※展覧会ページはこちら:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen011/


「MAMスクリーン012:チェン・ジエレン(陳界仁)」アンコール上映

「MAMスクリーン」アンコール上映の第1弾では、「MAMスクリーン012:チェン・ジエレン(陳界仁)」で上映された5作品《工場》(2003年、森美術館所蔵)、《ルート》(2006年、森美術館所蔵)、《残響世界》(2014/2019年)、《星図》(2017年)と《中空の地》(2017年)を限定公開します。

台湾を代表するアーティストであるチェン・ジエレン(1960年生まれ)は、これまで活動家や社会の周縁部に生きる人々との協働制作を要として、多くの映像作品を手がけてきました。いずれの作品も、過去の政権が推進した政策の遺物としての建築を主な舞台に、フィクションとアーカイブ映像を融合させながら、人間という存在の脆さや、尊厳とはなにかを問う劇的なルポルタージュとなっています。作品が喚起するのは、日本の植民地支配から戒厳令の布告、さらには経済政策としての新自由主義の推進に至るまで、台湾の激動の歴史を通して人々が経験したトラウマと苦難です。

チェン・ジエレンは、これまで台北市立美術館(2010年)、国立ソフィア王妃芸術センター(マドリード、2008年)などで個展を開催。サンパウロ・ビエンナーレ(1998年、2010年)、ヴェネチア・ビエンナーレ(1999年、2005年、2009年)、リバプール・ビエンナーレ(2006年)にも参加するほか、2018年にはアワード・オブ・アート・チャイナ(AAC)が選定する「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。


チェン・ジエレン《工場》

2003年
スーパー16ミリのDVD変換、カラー、サイレント
31分9秒
所蔵:森美術館(東京)

本作では、衣料品工場で労働に従事したのち職を失った女性たちが、稼働を停止したその工場で以前の職務を再演します。舞台となった工場は、1969年に設立され、台湾の産業と輸出経済の成長に寄与したものの、政府が市場の規制緩和と新自由主義的な貿易政策によって経済を再建してから10年後、1990年代半ばに閉鎖されました。投資家たちは、より安価な労働力のために業務の拠点を海外に移転するため、給料不払いのまま従業員を解雇したのです。チェンは、職を奪われたあと何年も抗議を続けていた元従業員の女性たちと2002年に出会い、彼女たちの窮状について話を聞きました。その対話から生まれたのが本作です。


チェン・ジエレン《ルート》

2006年
スーパー35ミリからのDVD変換、カラー/白黒、サイレント
16分45秒
所蔵:森美術館(東京)
日本語字幕:奥村雄樹

本作品の背景にあるのは、ネプチューン・ジェイド号事件と呼ばれる国際的な港湾労働者運動です。1995年の英国では民営化政策の影響で、労働組合に加入していたリバプールの港湾労働者が大量解雇されました。それを受けて世界各地の沿岸部では、国際港湾倉庫労働組合(ILWU)の主導により、国境を越えたストライキが展開されます。
チェンは、この国際的な連帯からインスピレーションを受けて、現在の高雄港において実際の労働者たちと協働し、擬似的な抗議行動を秘密裏に実施しました。たとえ虚構であっても、そこから伝わってくるのは、時間や距離を越えて連帯を願う港湾労働者たちの姿です。


チェン・ジエレン《残響世界》(シングル・チャンネル・エディション)

2014/2019年
ビデオ、白黒、サウンド
59分47秒
日本語字幕:奥村雄樹
日本語字幕協力:岩切 澪

本作品は、日本統治時代に台湾に設立されたハンセン病患者のための療養所「楽生院」を舞台としています。台湾におけるハンセン病患者の分離政策は、日本統治が終わってから15年後の1961年に撤廃されましたが、多くの入所者たちは出所を拒み、同院を「我が家」として生活を続けました。1994年、楽生院の敷地に地下鉄の施設を建造する計画が発表されると、建物の取り壊しと患者たちの立ち退きをめぐって議論が巻き起こり、やがて同院の保存運動へと発展しました。
本作は3章で構成され、入所者、若い活動家、そして台湾の歴史に鑑賞者を誘い込む架空の政治犯の視点から、楽生院の歴史を紐解いていきます。本作は、4チャンネルのビデオ・インスタレーションとして制作されましたが、「MAMスクリーン012:チェン・ジエレン(陳界仁)」のためにシングル・チャンネルの映像として再編集されました。


チェン・ジエレン《星図》

2017年
ビデオ、白黒、サイレント
3分50秒

本作は、チェンが実兄のアパートで撮影した一連の白黒写真のイメージで構成されています。1997年のアジア通貨危機以降、長期の無職状態だったチェンの兄は、あるとき自殺を試みました。チェンの説明によれば、命を取り留めた彼は、それから各種の「異質な知識」に関する図像や文献を集めるようになりました。彼が収集したものが全体として何を意味しているのか、確かな答えはありません。しかしそこには、既存の世界観に囚われることなく巨大な知のシステムを構築しようと試みる、ある個人の意志が具現化されているようです。本作は《中空の地》の序章として位置づけられています。


チェン・ジエレン《中空の地》

2017年
ビデオ、カラー/白黒、サウンド
61分7秒
日本語字幕:奥村雄樹

「疎外化がますます進行する私たちの資本主義社会において、いまも落地掃(ローデーサオ)は人々を触発する力があるはずです」とチェンは言います。台湾の農村では作物が育たない時期に簡易な歌劇やパレードを催す伝統があり、その土着的な演劇のことを「落地掃」と呼びました。村人たちはそこで自身のアイデンティティを超えて農民、芸術家、神話上の存在といった異なる社会的な役柄を引き受けることで、複数の人格を出現させました。
現代版の落地掃として構想された本作では、労働者、失業者、活動家たちが演者として登場し、自殺を試みた男のための葬列を行います。そこでは、人々のアイデンティティや関係性が相互に結び付きながら徐々に変化するため、個々の身体は豊かな想像力の源泉となって、別の世界へと繋がっていくようです。


「MAMスクリーン012:チェン・ジエレン(陳界仁)」

会期:2019.11.19(火)~ 2020.3.29(日)

主催:森美術館

企画:矢作 学(森美術館アシスタント・キュレーター)

※展覧会ページはこちら:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen012/

 


「MAMスクリーン 013:ムニーラ・アル・ソルフ」先行公開

現在、新型コロナウイルス感染症の影響で開幕が延期されている「MAMスクリーン013:ムニーラ・アル・ソルフ」の中から、特別に作家の初期の代表作2作品《ラワーンの歌》(2006年)と《まるで私がそこにふさわしくないかのように》(2006年)を先行公開します。

ムニーラ・アル・ソルフ(1978年レバノン、ベイルート生まれ)は母国のレバノンとヨーロッパの両方を拠点に、国際的に活動しています。近年は第56回ベネチア・ビエンナーレ(2015年)や、ドクメンタ14(ドイツ、カッセル、2017年)などに参加しています。

政治や宗教が対立し難民問題が発生する現代社会での、日常の出来事や小さな物語、女性ならではエピソードなどを、ユーモアを込めて描きます。作風はドキュメンタリーの形式を用いますが、あえてフィクションやファンタジーを織り交ぜることもあり、「独白」や「語り」という手法を多用します。

「MAMスクリーン013:ムニーラ・アル・ソルフ」では上記2作品に加え、計4作品の上映を予定しています。開幕後は、ぜひ、森美術館の大きなスクリーンで作品をお楽しみください。


ムニーラ・アル・ソルフ《ラワーンの歌》

2006年
ビデオ
7分19秒
Courtesy: Sfeir-Semler Gallery, Beirut/Hamburg

本作では、戦争を主題とする作品が多いレバノンで、あえて戦争を語らないことを決意する架空のアーティストを作家自身が演じます。
制作スタジオに行ったり、ドキュメンタリー映画祭への応募を取り消したりと、作家の独り語りでストーリーは展開していきますが、結局、戦争を語ることになってしまう結末はアイロニカルです。レバノン内戦の記憶はほとんどないであろう若き作家アル・ソルフの「自分は作品で戦争を語るべきなのか」という葛藤が読み取れます。


ムニーラ・アル・ソルフ《まるで私がそこにふさわしくないかのように》

2006年
ビデオ
12分8秒
Courtesy: Sfeir-Semler Gallery, Beirut/Hamburg

本作では作品制作をやめた4人のアーティストの回想が描かれています。彼らの過去の作品として、有名な現代美術作品の類似品や古典作品の流用という現代美術の典型的手法を用いたものがコミカルに登場します。これは一定の形式、条件や流行に左右されがちな現代美術界で作品を制作しなくてはならない、アル・ソルフ自身の葛藤を表現したものでしょう。


「MAMスクリーン013:ムニーラ・アル・ソルフ」

会期:2020.7.31(金)~ 2021.1.3(日)

主催:森美術館

企画:近藤健一(森美術館シニア・キュレーター)

※展覧会ページはこちら:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen013/

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