2012年1月12日(木)

メタボリズムと時代精神 「メタボリストが語るメタボリズム」(5)

本シンポジウムの話題は、東京大学丹下健三研究室《東京計画 1960》へと展開し、プロジェクト開始当時の様子が語られました。さらに、当時の建築にメタボリズムが与えた影響へと話は広がっていきます。
[出演者:栄久庵憲司(インダストリアル・デザイナー)、神谷宏治(建築家)、菊竹清訓(建築家)、槇 文彦(建築家)モデレーター:内藤 廣(建築家)]


丹下健三研究室の思い出を語る神谷宏治さん
撮影:御厨慎一郎

内藤:それではこのあたりで、世界デザイン会議(第4回 「世界デザイン会議」とメタボリズム参照)からメタボリズムそのものに視点を移したいと思います。当時のいろいろな方にお話を伺うと、何パーセントだかわからないけれど、「できる」という確信が、生み出す側の心の中にあったはずなんですね。大きなプロジェクトが1960年前後に出されて、《東京計画1960》がその中心だったわけですけれど、当時の様子や丹下健三研究室の雰囲気などについて、神谷さんからお聞かせいただけますか。

神谷:丹下さんは、戦争が終わった直後から東京の改造計画に着手しております。同時にまた、広島や地方都市の改造計画も手がけています。《東京計画1960》は、終戦の1945年から15年経っているわけですが、その間に研究室に入った大学院生に対して、例えば東京都内の交通量の調査や、人口の変動の調査など、都市計画に必要な基礎資料を継続的に手に入れるような研究課題を出してきています。ですから《東京計画1960》は、かなり長い予備的な時間をかけて、計画的に進めたプロジェクトだと言えます。

内藤:アメリカの経済学者のロストウが、経済が離陸すると、飛行機が離陸するときのような上昇カーブを急激に描くのだと言っていて、そのロストウについて丹下さんがよく触れられていますね。60年前後の日本は、まさにそういう経済的離陸をする直前という気分だったのでしょうか。

神谷:テイクオフという言葉で言っていますが、GDPが少しずつ上がって社会が繁栄していく。ちょうど離陸する状態にある60年代に我々はいるのだと認識しています。丹下さんは、メタモルフォーゼ、つまり都市の構造改革、建築の構造改革を目指して、《東京計画》を提案したのです。メタボリズムよりは上位の次元で総合的に都市の新しい計画理念と形を掲げたと思います。

内藤:同じ時期のメタボリズムの中から、栄久庵さんには繋がるものがあったでしょうか。

栄久庵:インダストリアル・デザインは、その原点は「道具の世界」なんですね。人類の誕生以来、共に暮らしてきた道具というものが、新陳代謝、メタボリックな動きをするかどうかという点に、私は最初から焦点を当てていました。インダストリアル・デザインはアメリカで発達したものです。大統領も一般の人も同じ缶詰を食べることで、それが人の心を上下差別なくつなげていくのだ、という考え方が根底にあったのです。それが日本へ渡ってきたのですが、手軽で数が多ければ多いほど良いという考え方だけでは、決して良くはないわけです。

私の心にとても残っておりますのは、戦地経験もされた浅田孝さんの話です。「人の体を切ると血が出るよ」。私は思いました。「なるほど、血管か」と。たとえ題材が同じく、目が二つ、鼻が一つ、口が一つでも、表現は十人十色、常に変化に富んでいるものです。それがここにおられる先生方の表現にも表れたのではないでしょうか。人体を切れば血が出るのであり、血管をちゃんとしなければいけないといった原理的なことは、都市や建築に関わらず、都市は生き物であると解釈したのと同じように、何に対しても言えるのではないか。インダストリアル・デザイナーがメタボリックな世界に参加することに、非常に悩んでいたのですが、そう考えたとき、ぐっと身近に感じ、共鳴できたというのが実感です。

内藤:ありがとうございます。メタボリズム宣言が1960年ですけれども、この時に槇さんは名古屋大学の豊田講堂をつくられています。この建物にメタボリズムの影響はあったのですか?

槇:自分でも不思議なのですが、豊田講堂を設計した後、その系列のデザインの作品はほとんどないのです。自問してみますと、先ほど言ったツァイトガイスト、時代精神の一つの作品だったのだと自分なりに納得しています。非常に軸性の強いものですが、明らかに丹下さんが広島でなさった軸性、おそらく日本で最初の、アーバンデザインの一つの新鮮な手法だったと思うのですが、その影響も受けているかもしれません。

日本経済が急速に上昇し、おそらく高密度社会になるだろうという予感の中で、建築家は取り組んでいたのではないかと思うんです。ただしその高密度っていうのは、今あるように、高さ1000メートルの塔を建てようとか、GFA(総建築面積)を2000%にしようというレベルの話ではなく、例えば、空に向かって積み重ねるといった菊竹さんの《塔状都市》でもその傾向が非常に強く出ていると思います。我々のやった《群造形》も、高密度社会の中で、どう寄り添ったらいいかという今度はホリゾンタルに繋げていくという考え方がありました。外部空間と内部空間を同等に取り扱っていこうという考え方ですが、高密度社会への都市や建築のありかたが、ある共通の考え方の中から生まれてきたのではないかと思います。


《日本万国博覧会》模型
「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」展示風景、森美術館
撮影:渡邉 修

メタボリズムとその当時の国家については、それが看過できない問題だったと思います。日本は太平洋戦争という苦い経験を、国家の覇権主義の結果として経験したわけです。1960年の日本は平和宣言をし、覇権を求めない国として、世界に再登場できるという機会を得た。その中でのこの一連の建築は、非常に意味があったのではないかと思います。その象徴が、1970年の「お祭り広場」(日本万国博覧会)に表れています。誰でも自由にそこに出入りできる。上を見上げるとカプセル空間が浮遊している。岡本太郎の非常にユーモアもある太陽の塔が突き抜けている。それはある意味においてですね、日本の国家の未来に対する非常に強いメッセージだった。そのようなことが時代の一つの精神の表れではなかったかなと自分は思っております。
 

<関連リンク>

・シンポジウム第1回「メタボリストが語るメタボリズム」
第1回 1960年前後、日本建築会の風景
第2回 そして迎えた1960年
第3回 それは廃墟のイメージから始まった
第4回 「世界デザイン会議」とメタボリズム
第5回 メタボリズムと時代精神
第6回 今、メタボリズムを考えることの意義
第7回 丹下健三とメタボリズム

「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」
会期:2011年9月17日(土)~2012年1月15日(日)

展示風景「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」

一分でわかるメタボリズム

カテゴリー:01.MAMオピニオン
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